陶芸家・會田雄亮さんと言えば、『ネスカフェゴールドブレンド』のイメージキャラクター「違いのわかる男」としてご存知の方も多いはず。
「土は限りない言葉を秘めている。彼はその声を聞き分け、その温かな語りかけを器として現代に手渡していく」
このナレーションと共に、會田さんが練り上げの技術でマグカップをつくる姿が印象的なCMでした。
CMが放送されていた時期から少し前、1960-70年頃に會田さんによってデザインされ、NIKKO(日本硬質陶器時代)の硬質陶器素材で2013年頃まで製造されていたオーバルホワイトシリーズがあります。陶芸作品から新宿三井ビルの55広場といった環境造形まで、自然との調和を大切にする創作活動を続け、国内外で技術と作品の高い完成度を評価されてきた會田さんによるシリーズを何故NIKKOがつくることになったのか…その経緯は知られていません。しかし現代の食卓もまた、華やかに照らしてくれる存在として、良いものは未来に繋げていきたいというNIKKOの想いで、復刻が決まりました。
會田雄亮さんとはどんな人物だったのか…
會田さんに師事した福川成一さんに話を聞くため、小林和人さんが「會田雄亮忍野窯」を訪ねました。
會田雄亮忍野窯の外観。反対側には富士山をのぞむことができる。
會田さんは富士山のシルエットが一番美しく見える土地を探して、自然豊かな山梨県忍野村に忍野窯を開いたといいます。
窯に行く前にランチをしながらお話ししようということで福川成一さんと待ち合わせたのは、隣の静岡県の御殿場市にあるフレンチレストラン「sumi」。
sumi の外観。広い空、生い茂る木々、美しい植物との時間はあまりにも贅沢だ。
ここは、福川さんのお母様・スミさんが自宅を開放してフランス家庭料理の店としていた場所。娘さんの夫である須藤亮祐シェフが地元の新鮮な食材を使ったフランス料理を楽しめる店として昨年オープンした、庭も楽しめるレストランです。店内に入るとすぐ、象徴的なキャビネットが迎えてくれました。
キャビネットには福川さんのお気に入り食器がずらりと並ぶ。左下には會田さんの代表作と言えるキャセロールも。
小林さん「このキャセロールは會田さんが海外で金賞(※)をとった作品ですよね」(※1968年にイタリア ファエンツァ国際陶芸コンペで金賞を受賞)
福川さん「はい。私は食器が好きだから色々見てきましたが、こんなに美しくいきおいのあるキャセロールは見たことがないです。傑作ですね。『いくらでも出すから売ってくれないか』なんて今でも言われます」
福川さんといえば、一級建築士事務所「ARK CREW」を設立し、ランドスケープアーキテクト又、大学講師など、ランドスケープの分野で活躍されています。小さい頃は素晴らしいサラリーマンになるように育てられたそう。しかし本人は何かの可能性を感じ、サラリーマンではない生き方として丁稚奉公をしてみたい!という想いがあり、”一番厳しい師匠“に付こうと相談し、紹介された會田雄亮さんのもとで修行をすることに。
福川さん「一番厳しいところに行って、だめならば諦めて親父の言うサラリーマンになればいいんじゃないかと思って。だから焼き物がしたかったわけではなかったのですが、物作りの方法は何でも同じだからと言われてそれを信じて始めました」
今回の探訪は、會田さんの奥さま、暁美さんが福川さんを紹介してくれたことで実現。探訪には暁美さんも同行してくれた(写真左)。
そう笑いながら、會田さんの話が始まりました。
福川さん「当時先生のところには確か3人のスタッフがいて、デザイン学校を出た知識のある人たちでした。先生から給料をもらって仕事をするのか、給料をもらえないけど弟子になるのか。と言われて仕事に組み込まれず色々広く学べるという弟子を選んだんです。同じ美術系でない総合大学出ということもあり、先生には本当に可愛がっていただいて、どこにでも一緒に行かせてもらいました。スキーに行ったり海に潜ったり、秋葉原電気街の買い物でさえも…」
忍野窯にある本棚の一部。會田さんはよく料理をしていただけあり、料理本もずらり。
會田さんが何を考えているかを知りたいと思い、會田さんの本棚にある本は全部読んだといいます。
福川さん「小説から歴史物、料理本までいろいろとありました。後にこのアイデアはあそこからだな、と思うことがあったりして、おもしろかったですね。焼き物は覚えるのに3年と言いますが、寝なければ1年と思い必死に勉強しました。弟子になって一年でチーフになり新宿三井ビルの現場を任せていただきました。その後石油危機があり全てのプロジェクトが中止になって忍野のアトリエを任され、技術のないスタッフでも作れる付加価値のある食器を作ろうと、練り込みの和食器ラインを作りました。私が練り込みの縞の端切れを組み合わせて新しい模様を作るとすぐに先生に採用されるので、スタッフはその複雑な工程に辟易として、『もう福川さん作らないで下さい』と言われていましたね」
忍野窯には当時使われていた石膏型が並び、もう稼働はしていないはずなのに、まるで會田さんがそこに存在するような空間。
小林さん「一番厳しいと言われて紹介された會田さんは、実際に厳しい方だったのでしょうか」
福川さん「当時いたスタッフ3人は多分相当絞られていましたね(笑)。厳しかったのかも知れませんが私は喜んでいました」
小林さん「同じ熱量で向き合っていらっしゃったのですね」
福川さん「でも怒るってことは本気ってことですからね。こっちは修行をなるべく短くしたいから、怒らせようともしていましたよ(笑)」
忍野窯の大きなテーブルに、ずらりと並べてくれたNIKKOオーバルシリーズのデッドストックを熱心に見る小林さん。
福川さん「NIKKOさんとの取り組みは、私がまだ駆け出しの頃だったと思います。初めて工場に行くときにまだ提案業務が全然進んでいなくて。先生は自分が行くとちゃんと提案をしなきゃいけないから、『おまえが行ってこい!』って…、NIKKOさんの真剣な姿勢を見て本当に申し訳なく感じました」
貴重なオーバルシリーズの石膏模型も出てきて、一同驚いた瞬間。当時販売時に同梱された説明書も保管されていた。
小林さん「こうやって會田さんの工房を訪れて当時の試作の数々を見ると、実際に手を動かして石膏を削り、カーブやエッジの厚みなどひとつひとつ点検していったことが伺えます。そのことによって、プロダクトでありながらもどこか息遣いを感じられるような、そんな有機的な魅力に繋がっているのかもしれません。豊かな時代ならではだと思いますよね」
福川さん「今ではシンプルな器が安く手に入りますが、残念だと思ってしまいます。自宅に人を呼ぶわけでもないし、今は器に興味がないんでしょうか。毎日の暮らしを大切にして喜びが必要ですね。良いものを選んで、毎日嬉しいと思えると幸せだと思います」
この言葉に、深く頷く小林さん。
復刻するオーバルホワイトシリーズのサンプルを初めて見る福川さん。
福川さん「食器は、時代を遡るとヨーロッパの一流食器メーカーにもモダンデザインのものが多くあって、ものすごくおもしろかったですよね。だからもう一度先生の作品を復刻していただけるなんて、私にとっては大きな喜びです。もちろん挑戦ではあると思いますが、当時のようにデザインが輝いていた時代がもう一度やってきたらいいなと思いますね。例えば、いいなと思ってもなかなか手に入らない素敵な器があって、それでもどうにか手に入れたとします。そこにいたるまでの物語で、ワイン1本くらい飲めちゃいますよね」
今回NIKKOが復刻させた會田さんのラインは、デザインが暮らしの中で華やかに取り入れられたミッドセンチュリー期を象徴するのびやかな造形が特徴的なもの。
この「デザイン」された白い器が、今では貴重になってしまったのかもしれません。
福川さん「挑戦し続けることってものすごく大切で、先生に何を習ったのかというと、挑戦の持続ということかもしれません。ひとつの素晴らしい作品が生まれるには、ものすごい数のアイデアの下地が必要です。先生はその多くの可能性の中からひょいと拾い出すんです。そしてそれを間違いないかと疑い続けるのです」
忍野窯で最後に記念撮影。
「私は手先が器用だったんです」と言いながら、最後にこんな話をしてくれました。
福川さん「例えば、石膏の板をある大きさに切り出す作業を、先生は板にマークをしてノコギリで切り、それから慎重に削って行います。でも私は石膏が固まる寸前にカッターナイフでスパッと切って終わり。それで同じものはできるんですよ。ただ、当時の自分はいかに効率的にできるかを考えていましたけど、本当は過程が大事なこともあるのですよね。私には目的のためだけの時間でしたが、やっぱり作りながら考える時間にいろんなことが生まれるんだと思います。30歳、いや40歳過ぎて少しずつわかるようになりました」
小林さん「會田さんがじっくりと時間をかけて発酵させていき、福川さんが整理して進めていくという二人がいた事が大きなプロジェクトを達成させてこられたのでしょうね」
そんな小林さんの言葉に、こう締めくくってくれました。
福川さん「先生がお亡くなりになるとき、倒れられたくらいかな。愛していると感じました。好き嫌いで言ったら、嫌いかもしれませんけど(笑)」
富士山を望む大自然の中で、土の語りかけに向き合い、創作を続けた會田雄亮さん。
NIKKOのアーカイブの中に會田さんとのアイテムがあることを改めて誇りに感じた窯元探訪となりました。いよいよ、會田さんによるシリーズが、世界一の白さとも言われる NIKKOのボーンチャイナで復刻です。
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11/28(木) 11:00~発売予定
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